No.17 和也が自身に課した泳ぎの特訓
和也の自身に課した泳ぎの特訓は依然続いた。手足の動かし方や息つぎの要領を覚えるに従って、楽に泳げるようになり、日増しに上達していく喜びに快感さえ覚えるようになっていった。瀬田がもし生きていれば泳ぎのうまくなった自分を見てなんと言うだろうか……瀬田ともう一度、この青い大海原で泳ぎを競ってみたかった、と瀬田の勇姿を思い、悔やんだ。
8月に入ったある日。泳ぎ疲れ、島の上に仰向けになってクラゲに刺された腕に唾をつけながら、盛り上がった白い積乱雲をなにげなく目で追いかけていた時。いつか瀬田があそこから飛ぶんだと言っていた島がふと和也の目にとまった。
紺碧の海にほの暗い影を落とし、茶褐色の厳つい渋面を剥き出しにして、それは吃立していた。その鼻ずらは海に向かって少しばかりかしいで見えたが、海底に連なる無辺の岩盤に支えられ、全体的には牢固たる異容を誇らしげに堂々として見えた。
島と海面との境に突き出た岩はなく、隣の島の影になって、真昼だというのに、辺りはいっさいの光を拒み、濃い藍色を塗り重ねたような陰気な海がゆらいでいた。
瀬田の言っていたことを思い出しながら、そこまで泳いで行った。
----- が、傍まで行き、下から島を見上げた時、さすがにその高さに圧倒され、すっかり怖気づいてしまった。とても無理だ、飛べない……あんなところから飛ぶなんて、狂気の沙汰だ……びくついて、すっかり血の気が失せ、唾を飲み込もうとしたが、喉の入り口あたりでつかえ、代わりに堪え難い戦慄がにがい薬のように腹の底にしみわたった。ちょうどトモナガが飛び降り自殺をしたS中の校舎の高さを思い起こさせた。体中の筋肉がのびきって、腰から下はまるで海藻のように萎えた。
しかし、そのまま引き下がるのも癪だった。和也は立ち泳ぎをしながら、しばらく松のまばらに生えた島の頂きをじっと睨んだ。瀬田の言っていた頂上からの飛び込みは無理だとしても、自分の中に根をおろしている高所恐怖症だけはなんとしても克服したいと思った。
さっそくその日から、適当な島の岩場を見つけ、飛び込みの練習を始めた。無理をしないで、まず海面と同位置の所から何度も飛び込み、慣れるに従って高い所に立つことにした。
泳ぎながら、適当な場所がないかと目を凝らしていると、ちょうど手頃な岩場をそこから10メートルほど離れた所に見つけることが出来た。近付いて海面からそこを見上げた時、たいしたことはないとあなどったが、足をかけて岩をよじのぼり、実際にそこに立つと、予想以上に海面との距離があることに驚き、恐れおののいてしまった。
結局ぶざまな震えを感じながら、すごすごとその場を離れ、その傍のそれより一段低い所へと足は向かった。とりあえず、まずそこで何度も足の先から飛び込み、その高さに体を慣らすことから始めた。
両腕を真っすぐ伸ばし、岩肌を思いきり蹴って宙に浮いた瞬間、恐怖心が五体を締め付けた。飛び込むたびに胸のあたりでためらいが一つひとつ炸裂するのがわかった。海中で心臓が醜くひきつった。が、そのたびに少しずつ恐怖心を手なずけていった。
その高さに体が慣れると、今度は頭から飛び込んでみることに挑戦した。しかし飛び込むたびに海面に強く腹を打ちつけ、そこが赤く腫れて痛み、惨憺たる思いをした。どうしても空中に浮いた瞬間、恐怖心が頭をもたげ、無意識のうちに顎が上を向き、腰が落ち、腹部に強い衝撃をおぼえた。
最初の日は何度やっても同じような失敗を繰り返した。それに懲りて海老のように体を前屈させて飛んでみたり、顎を首にべったり付けて飛んでみたりもした。だが、幾度もしたたかに海面に腹を打ちつけ、くっきりと赤く腫れた跡が腹部に残り、飛び込むたびにさらにそれは広がり、より際立っていった。
それでも、和也は飛び込みをやめなかった。歯をくいしばり、むきになって海原に立ち向かっていった。
どうすれば、身体に受ける衝撃を和らげることができるのか。和也は水泳の手ほどきを著した本からも懸命に学んだ。繰り返し読み、模範的な飛び込みのフォームを目に焼き付けた。
翌日、本で学んだフォームを試してみた。しかし、頭と体がちぐはぐで、中々思い通りにならなかった。いつもと同じようにいやになるほど腹ばかりか体中を海に叩かれ、昨日受けた痛みもぶり返し、体の細胞が倍に膨れ上がったような感覚にとらわれた。
が、いつしか恐怖心が少し薄らいでいるのがわかった。慣れと気迫が次第にそれを弱めていったのかもしれない。それさえ感じなければ、2メートルも10メートルも同じことだ。和也は強気になった。飛んでしまえばなんのこたあねぇ……瀬田の言葉が思い出された。あとは飛び込んだ時に体に受ける衝撃をいかに少なくするかということだけだ。
和也は、体に受けるダメージが少なくてすむフォームを工夫し、飛び込むたびに感じる痛みの度合いをひとつ一つ計った。
それから3日もすると3メートルほどの高さをさほど体にヒリヒリするうずきを感じることもなく、めまいがして腰が引いてひるむというようなこともなく飛べるようになった。
ある程度の高さが難なく飛べるようになると、手足の筋肉や腹筋を鍛えるトレーニングも始めた。瀬田のようなたくましい体になりたいと思った。出来ないことはない。飛び込みだって徹底的にやった。あきらめず何度も繰り返しやれば必ずできる。固く、そう信じた。
No.18 暗い海は、深い静かな眠りに