No.3 ガソリンと食糧の調達に一瞬のひらめき

金も持たないでふらりと旅に出て、全く不安がなかったのかと後で沢村や演劇部の仲間たちに訊かれた時、正直、僕は即座にYESとは答えられなかった。

僕はそれほど度胸のある人間じゃない。念入りに計画してもなかなか一歩が踏み出せないような性格だ。その時の事を振り返ると、よくそんな思いきったことをしたものだと我ながらに感心さえする。

確かに20歳になって今まで経験したことのない事に挑戦してみたいとか、買って間もないバイクで遠乗りしてみたいという思いが、旅の動機としてあったかもしれない。が、やはり由里先輩のことを吹っ切れるような強烈な体験を求めて旅に出たというのが一番の動機のような気がする。

長い時をかけて培われた彼女への思いは簡単には消えそうにない気がして、それを掻き消すにはかなりの荒療治が必要にちがいないと思った。 失恋の痛手はそれ以上に何か大きな痛みを負うことでまぎらわす以外に方法はないと、20歳になったばかりの僕は思ったのだ。

国道をバイクで北上している間、ずっと今日の寝ぐらと食糧の確保のことばかり考えていた。1日くらいなら、どこかで水でも飲めば当座はしのげるかもしれない。が、充分な睡眠がとれないとバイクに乗っていてかなりつらい。お寺の境内、駅のホーム、民家の軒下。思いつくままに寝ぐらを頭に描いたが、そのたびにうらぶれた情況ばかりが頭に浮かび、途中で考えるのが嫌になってきた。

--- が、そうはいっても数時間後には日が落ち、いやがおうでもそのことに直面せざるを得なくなる。逃げることの出来ない現実がバイクの先でパックリと口を開けて待っている。

半分自暴自棄になってアクセルを回し、加速をつけた。勢いのいい排気音を耳にした時、胸のあたりが波立った。ガソリンがどこまで持つだろうか。街中だろうが山中だろうがガソリンがなくなってしまえば、身動きがとれなくなる。寝ぐらも食糧の確保もどちらも大事だが、ガス欠になる前にバイクのガソリン代を作ることのほうが先決だ。

タンクに入っているガソリンの残量を見ながら何とかしなければと焦った。このまま走りっぱなしでもたぶん明日の夕方頃までは持つだろう。だが、それまでに金をつくらなければ一貫の終わりだ。ガス欠で立ち往生したライダーほどみっともないものはない。

荒川を渡ってしばらくして、ビルの建設現場の前を通りかかった時、昼食を終えて日陰で休んでいる数人の労働者たちと出くわした。 なにげなく彼らを目にした時、ひらめくものがあった。

彼らの寝泊まりしている飯場。そこに転がり込めば、寝場所と食事にありつけるかもしれない。うまくすればそこでバイトして北海道行きの資金を作ることだって可能かも。悪くない。悠長なことを考えている余裕はない。すぐその思いつきに飛びついた。

一挙に難問が解けたような気がした。幸い高校時代にサッカーで鍛えたおかげで体力には自信がある。何度もうなずき、きっとうまくいくと自らを納得させた。問題はどうやって飯場を探すかだ。日没までにどうしても探さなければならない。

どこかに飯場らしきものはないかと街並みに注意深く目をむけた。が、瀟洒な家屋の建ち並ぶ通りや商店街に折りよくプレハブの飯場が突然現われるはずもない。人通りで賑わうメインストリートを横道にそれ、江戸川の見える辺りまでバイクを進め、目を凝らして飯場らしき建物を探した。

松戸辺りを通りかかった頃。朝、カレーショップに立ち寄ってその後3時間以上もバイクに乗っていたためか腰の辺りに鈍い痛みを感じ始めた。昨夜、沢村の部屋で酔いつぶれ熟睡できなかったことも原因だろう。そのうえ昼過ぎになって空腹感も増してきた。

僕はいったん大通りに戻ると、ジーンズから小銭を取り出し、ファミリーレストランの前の自販機で温かい缶コーヒーを買い、後ろポケットに突っ込み、ふたたび江戸川の川べりに戻った。

川の土手にバイクを止めると、下の原っぱに降り、コーヒーに口をつけた。すきっ腹にほろにがいコーヒーがしみわたった。目の前でススキの穂がなびき、少し上空で小鳥たちがさざめいていた。

ひょっとしたらこれで当分の間何も口にできないかもしれない。とりとめのない不安が頭をよぎったが、今さら後悔してもはじまるものかとコーヒーを飲み干し、野原に仰向けになった。

雲の群れとほのかな疲れがゆっくり身体を覆い、まぶたのあたりにぼんやりとした重みを感じた。辺りに人影はなく、僕は手足を伸ばし太陽のほどよい温かみを全身で受けた。

土手の向こうのグラウンドから歓声が風に乗って僕の耳に届き、そのたびに仲間のことや大学のことが思い出された。今頃みんなどうしてるだろう……沢村は書き置きを読んだだろうか。

僕が金も持たないで旅に出てるなんて誰も想像がつかないに違いない。後でこのことを話したら、皆どんな顔をするだろうか。大半が端からあり得ないといって相手にしてくれないかもしれない。中には僕を見直す奴がいるかも。帰ってからが楽しみだ。しばらくとりとめのない夢想にひたった。

仲間たちのことを思う一方で笠間由里のことも考えた。結婚の話が決まるまでに一言も想いを打ち明けることが出来なかったことがくやしかった。拒否されようが、それだけでも伝えていたらこんなに悔やむこともなかっただろう。いつかまた誰かを好きになってももうこんな後悔だけはしたくないと思った。

口を半開きにして、胸の中でくすぶり続けていた彼女への思いを空に向かって解き放った。重く澱んだ空気が僕の口から漏れ放たれていったような気がした。そのうち体まで風に乗って中空で舞っているような感覚を覚えた。

次第に気持ちもほぐれ、30分ほど柔らかい草の上で眠ってしまった。

サワサワとこすれ合う草の音が目覚めを促した。上半身を起こし、目を凝らして辺りを見回した。バイクは土手の上で空を背に、春ののどかな薄曇りの日差しを受け、鋭いメタリックの輝きを放っていた。つかの間だったが、腰と瞼のあたりに感じていた重みが少し体から離れていってくれたような気がした。

すぐにバイクに股がった。時計は3時をとっくに過ぎている。ささいな間にも時はせっかちに過ぎ、背後では陽が大きく傾いているような気がした。空に浮かぶ雲は小さく散り散りに離れ、太陽も土手を渡る風もどこか寂しげだ。辺りの景色が色を失い、灰色に沈んでいくような気配を感じ、思いっきりエンジンをふかした。

江戸川沿いに黙々とバイクを走らせ、飯場らしき建物に目を光らせた。

流山辺りを走っている頃だった。砂利や土砂で盛り上がった丘陵の間に立つ2軒のプレハブを見つけた。周りには広大な枯れ草の荒れ地が広がり、その一角には土砂を掘り起こすユンボやダンプが数台整然と並んでいた。プレハブの周りにはゴムたびをはいた作業着姿の男たちが見える。

バイクのスピードを落とし、プレハブを横目に見ながらどうしようかと戸惑った。心良く応対してくれるだろうか…けんもほろろに追い返えされるだろうか…やってみなくてはわからない…どんなことをしてもガソリン代と寝ぐらと食糧を確保しなければ。

バイクを建物の傍に止め、そこにいた作業員たちの中でもとりわけ人あたりの良さそうな男を選んで訊いた。
「すいません。ここで働かせてくれませんか」
僕の唐突な申し出に男は面食らったような顔をした。50前後と思われるその男は赤く充血して淀んだ目でしばらく僕を見たあと、あそこで訊いてみろと言って事務所を指差した。

男に言われるまま2軒の建物のうちの一つにドアを開けて入った。ドアを開けると中にいた3人のカーキ色の作業服の男たちが一斉に僕に目を向けた。彼らは机の上に図面を広げ見入っている最中だった。
「す、すいません」
手前にいた首に汚れたタオルを巻いた40くらいの童顔の男に僕は声をかけた。
男は顔を上げると、「はい、なんですか」と煩わしげに訊いた。
「あの、ここで働かせてもらえませんか」
そう言った後の反応は先ほどの労働者の時のそれとほとんど似たりよったりだった。僕はとんでもないことを口にしているような気恥ずかしさを覚えた。
「働くって、ダンプの免許は」
「い、いえ、バイクの免許なら」
僕がそう答えると男は唇の端に笑みを浮かべ
「それじゃあ。だめだ」
と言って、途端に素っ気ない顔をして首を横に振った。他の男たちは余計なことに気をとられたというような顔をしてふたたび図面に目を這わせた。
「どんなことでもいいんですけど。なんでもしますから」
「悪いけど、うちは土砂の運搬が専門で、ダンプの運転手しかいらんから。ほかをあたってくれんか」
男は顔に似合わぬ強引さを目もとに漂わせ、やりかけの作業に戻ろうとした。
たとえようのない違和感を覚え、ばつが悪くなり、僕は軽く頭を下げてそこを立ち去ろうとした。ドアを開けてそこから出ようとしている時だった。
「ここからちょっと行った先で常磐インターの工事をやっとるからそこならどうかなぁ」
最初に声をかけた男の横にいた男が顔を上げて僕に親切に声を掛けてくれた。
「え、あ、、そうですか。あ、ありがとうございます。ここからすぐですか」
「ああ、あんた車か」
「い、いえバイクで」
「この先の柏のほうで工事やっとるから人手を欲しがっとるかも知れん」

僕は帰り間際に声をかけてくれた男に頭を下げ、建物の外に出た。 思ったより早く太陽は西の空に移動して、大気中にはひと雨きそうな湿りけがはびこっていた。無性に心細くなって、エンジンをふかし、そこを後にした。

柏方面へとまっしぐらにバイクを飛ばした。日の沈まないうちに男たちの言っていた工事現場を探す必要がある。暗くなると、土地感がないため、とんでもない方向を走っていないともかぎらない。

しばらくして、彼らに正確な場所を聞いておくんだったと後悔した。柏方面に走っていればすぐに目的の場所は見つかるだろうと安易に考えていたのがいけなかった。どれほど走っても男たちの言っていたような工事現場は目の前に現れなかった。

路上はライトの明かりが必要なほど見通しがあやしくなり始めている。腕時計を見る余裕さえ無くし、道が違うんじゃないか、男たちの言っていたことは本当なんだろうかと不安にかられた。

( 一刻も早く探さないと……それに今度は失敗は許されない。どんなことをしても、そこに転がり込むんだ……そう、こんな時こそ、演劇部で培った演技で何としても乗り切らなければ…… )

ガソリンスタンドが折りよく目に止まったのは、もうすぐ5時になろうとしている頃だった。バイクを止め、残っていた金でガソリンを入れ、店員に常磐インターの工事現場を尋ねると、丁寧に方角を教えてくれた。

が、それを聞いて愕然とした。すでにそこは通り過ぎ、2キロほどまた同じ道を引き返さねばならなかった。夢中で走っていて、うっかり見過ごしていたのかもしれない。気を取り直し、店員に礼を言うと、元来た道をまた一目散に戻った。

何件かの明かりの灯った民家の集まりを通り過ぎると、うっそうとした林が両脇に現れ、そこを抜けると広大な敷地に並んだ工場が見え、またそこを過ぎると民家が歯の抜けた口のように薄闇に浮かび、そのうち何度も同じ所をぐるぐる回っているような錯覚にとらわれていった。

何度も商店の店先にバイクを止め、目指す場所の正確な位置を教えてもらい、結局何も買わないで礼だけ言ってその場を離れ、暮れていく風景を横目で見ながらひたすらバイクを走らせた。

常磐インターの工事現場にたどり着いたのは6時を少し回った頃だった。遠くから労働者たちが仕事を終えて、明かりの灯った飯場に向かう姿を見た時、まるで長旅からやっと我が家へと帰り着いたような気分だった。


No.4 苦しまぎれの作り話


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