見上げると、イチョウの葉がすっかり黄金色に色づき、陽光にゆらいでいます。
この季節、サキさんはまだ少しばかり温もりのある公園のベンチに座り、樹々の間からこぼれる優しい日の光をよく眺めます。
とくに休日の、良く晴れた日には、ベンチに座り、お気に入りの本を日がな読みふけっています。
子供の頃から少し聴覚に障害のあったサキさんは、読書がなによりの楽しみでした。
28歳のサキさんは、両親や周囲から結婚を勧められることがよくあります。そのことは本人にも自覚はありますが、なかなかその気になれません。 障害への引け目もありました。
2年ほど前、サキさんは3つ年上のS君と交際をしていました。S君はとても裕福な家庭に育った、親切で包容力のある青年でした。
父親が大きなインテリア会社を経営し、後継ぎであるS君の将来は約束されたも同然でした。
子供の頃から何不自由のない暮らしですと、とかくわがままや傲慢になりがちですが、S君は人に対して不遜な態度をとるようなことは決してありませんでした。
S君とサキさんはアウトレットモールで知り合いました。サキさんがレジで店員の声がよく聞き取れないで困っていた時、S君が背後でそっとサキさんにわかるように示してくれました。
S君は聴覚障害のサキさんに常にそうしたいたわりをもって接しました。それは、何の打算もない、心からの誠意でした。
< 世の中にこんな人もいるんだ >サキさんはS君と接するたび、よくそんなふうに思ったものです。
というのも、サキさんは、声の波長から、その人の性格や考えていることをなんとなく感じ取ることができたのです。
子供の頃から難聴ぎみで、人の声をじっと聞き取る習慣があったため、そうした能力が芽生えたのかもしれません。
しかし、それがはたして幸運なことなのか、というとそうでもありません。とてもわずらわしいこともあります。そのことで、人の心の裏まで読めてしまうことがあるからです。
どんなに優しい言葉をかけられても、それが本心からか、よこしまな心からかということが、なんとなくサキさんには分かりました。
ですから、サキさんはS君の人柄もよくわかっていました。
どんな音楽を耳にするよりも、S君の声を聴いていることのほうがサキさんはやすらぎを得られました。
しかし、そのS君との別れが突然やってきます。
ある日の昼過ぎ、S君とデートの約束をしたサキさんは、時計台のある公園のベンチに座り、S君を待っていました。
ふと見上げると、時計台の針が約束の時間を示しています。もうすぐそこから鐘の音が鳴り響きそうです。
< 早く、S君に会いたい >サキさんの心がはやります。前髪を手鏡で整えたり、ピンクのセーターが少し派手かなと思ったりします。
しかし、10分過ぎ、30分過ぎてもS君の姿が見えません。S君は約束の時間に遅れるような人ではありません。
待ち合わせの時間を間違えたのかと、心配になり、サキさんはS君のケータイに電話をしてみます。が、なぜかケータイは不通になってしまいます。メールをしても返信がありません。
1時間以上、サキさんはベンチに座り、S君が来るのを待ち続けました。しかし、S君はその日とうとう姿をみせることはありませんでした。
サキさんの耳の奥に、時計台の鐘の音が、空しい響きとなっていつまでも残っていました。
S君が約束をたがえるような人でないことは、サキさんもよく知っていました。もしかしたら、事故にあったのかも知れない。サキさんはS君の自宅に電話をかけてみました。
電話に出たのはS君のお母さんでした。しかし、お母さんは、Sはここにはいない、あなたにお答する必要はない、と頑なに同じ返答を繰り返すだけです。
そして、その日を境にサキさんは二度とS君と会うことはありませんでした。
突然、理由も告げず、目の前から姿を消したS君。サキさんは数日悲しみに暮れました。< もしかしたら、私の障害のためにS君の心が離れていったのかも知れない >そんなふうにも思いました。
さまざまな思いが駆け巡ります。しかし、サキさんはS君を恨むことも、非難することもしませんでした。
そうしたことに、サキさんはもう慣れっこになっていました。ただ、なぜ突然、S君が音信不通になったのか、一体、S君はどこへ行ってしまったのか、そのことがとても不思議で仕方ありませんでした。
それだけではありません。この数日、サキさんは周囲に不穏な気配を感じることがたびたびありました。どこに行くにしても、だれかにジッと背後から見られているような、そんな感覚が常に走りました。
あの時計台の下で、ずっとS君を待ち続けている間も、もしかしたらもうS君に会えないかもしれない、という胸騒ぎのようなものがありました。
それから1週間ほど経った頃。
サキさんは、風の噂で、S君の会社が経営破たんしたことを知りました。S君の会社は買収され、S君は経営統合された会社の社長令嬢と婚約したというのです。
それを聞いて、サキさんは少なからず動揺しました。しかし、< もともとS君と自分とは住む世界が違う >という、自覚もありました。
S君との別れは辛いことですが、それよりも、S君が何事もなく無事でいてくれたことにサキさんは安堵しました。S君が親切にしてくれた事、S君がかけてくれた言葉の数々が胸をよぎります。
優しいS君のことですから、両親に先方の会社の令嬢との結婚を強いられ、断ることができなかったのかも知れない。S君が幸せでさえいてくれたらそれでいい、とサキさんは思いました。
2年の歳月がサキさんの心の傷をゆっくり癒しました。
サキさんは、ある地方都市に引越していました。休みの日には、いつも公園のベンチに座り、読書にふけっていました。
時おり、赤ちゃんを抱えた若い男女がサキさんの目の前を通りすぎていきます。木漏れ日が家族を優しく包んでいました。
サキさんは婚活のイベントに行ってみようかな、とふと思いました。1週間ほど前、会社の友人から一緒に行こうよ、と誘われていました。
婚活イベントの日の昼過ぎ、サキさんはいつものように公園のベンチに座り、樹々の間から差し込む柔らかい光をぼんやりと眺めていました。
婚活イベントは2駅離れたレストランで行われることになっています。< 今日はどんな人が来るのかしら、もうそろそろ行かなきゃ、時間になる >とサキさんは腰を上げました。
と、その時でした。
遠くで、小さく響き渡る鐘の音を聞いたような気がしました。それは、いつかS君を待ち合わせていた時の、あの時計台の鐘の音にも似ていました。
さらに、S君のあの優しい声がサキさんの傍らで聞こえたような気がしました。
「僕はいつまでも君のことを見守ってるよ」
背後からそう語りかけられたような気がしました。
後ろを振り返りますが、誰もいません。その声は確かに、S君の声によく似ていました。
ゆっくりと日が落ち、樹々の長い影が次第に淡いものになっています。
サキさんはしばらく立ちつくしたまま、遠くから聞こえてくる鐘の音とS君の声の余韻に浸りました。
きっとまた、S君のような人に出会える。ふと、サキさんは思いました。