そして、いつかの海に
Another Sea Story

そして、正夫が小学6年生になった年の4月のある日。

うららかな春の陽気にあふれた海辺の国道を一人の男が歩いていた。このあたりでは見かけない顔だ。白髪の目立つその男はこざっぱりとした身なりをしているが、観光目的の旅行者のようには見えない。出稼ぎの季節労働者といった印象を誰もが男から受けそうだ。

いくぶん猫背ぎみで、痩せてあまり顔色はよくないが、むしろ同年代の人間より気丈そうに見える。年の頃は40半ばといったところだろうか。

男はビニール製の学生が持つような紺色のバッグを手にして、何やら思いにふけっているような顔でぼんやりと海を眺めながら歩いていた。

白いワイシャツの上に無造作にはおった薄茶色の背広が彫りの深い男の顔によく似合っていた。

男は思い出深いコンクリートの橋のたもとに足を止めると、あたりの風景のすみずみに目を配った。そして、背をかがめ、橋の下をのぞき見た。

なにもかも変わっていなかった。日陰になっていつも湿っぽいコンクリートの地肌も、それによりかかった時に見える白い歯をむき出しにしたような海も……2年前のあの時とまったく同じ……だった。

そこを離れる決意をした日のことを男は思い返した。あの日、男は毎日のように男に会いにきた少年の母親と対面した。

男は今でもあの時の母親の訴えかけるような声の響きをよく覚えている。

―― 『正夫はあなたのことを1年前に死んだ父親だと思っているんです……それであなたのために盗みまでして……お願いです……あの子のためにも、一生懸命生きてください……あの子のためにも、どうか頑張って生きてください』

―― 母親は目もとをうるませ、ひざまずいていつまでも頭をさげたままでいた。

2年か……あっという間だった……あの子は元気だろうか……この春で確か6年生だ……。空を仰ぎ、涼感のある薄い羽のような雲を目で追いかけながら、男は少年と過ごした日々を思い起こした。

あの日……少年の母親と会った日……

男は紙袋の底にいざという時のためにしのばせておいたわずかばかりの所持金を取り出して電車に乗り、以前いたことのある街に舞い戻り、そこで働き口を探した。

男を待っていたのは、古くなったビルの解体工事、蒸し風呂のような溶接工場での作業、そして深夜におよぶ道路の補修工事といった決して楽とはいえない仕事ばかりだった。それでも、男は我が身にむち打つように懸命に働いた。

3畳の日払いの宿に泊り、以前のように酒を口にしなくなった男は日当が入ると、その大方を貯金し、残った金できりつめた生活を送った。

同じ職場の仲間に誘われても、いつもそれを拒むため、つき合いが悪いとなじられたこともあった。

仕事が終わって疲れきった体で部屋に戻ると、暗い電灯の下で少年といつか約束した花火の絵を少年からもらった色鉛筆を大事に使ってかいた。毎日、毎日何枚も書き直し、精魂を込め、満足のゆくまでそれに取り組んだ。いつの日か、りっぱに完成したそれを持って少年に会いに行きたいと思ったのだ……。

晴れやかな空を見上げながら、生涯であんなに働いたことはなかった、と男はこの2年間を感慨深くふりかえった。そして2年前、橋の下で寝起きしながら、海を眺めていた日々を回想した。

あの頃、目の前に広がる海は、男の赤く充血した瞳の中で始終鈍い銀色の光を放ち、重々しく揺れていた。

何度その海に入って死のうと思ったことだろう。あの少年に出会うことがなければ、今ごろ、海の底で腐れはてていたかも……。

少年からうけたさまざまな恩を男は忘れはしなかった。海岸にふたたび訪ずれた目的は、あの時の少年に再会すること、そして約束していた花火の絵を少年に手渡すことだった。

だが……、少年がどこに住み、どの小学校に通っているのかまるで男にはわからなかった。

男は駅前の旅館に3日間の予定で宿をとり、少年が通っているであろう海岸に近い小学校の校門の前に立ち、少年を探すことにした。さほど労せず、少年に会えるだろうと男は安易に考えていた。


……が、授業が終わって元気よく校門から飛出してくる生徒の群れの中から、あの時の少年を探すのは困難をきわめた。

最初の日も、2日目も……徒労に終わってしまった。校門のあたりをうろついているにを近所の人間にうさんくさげに見られ、そのとげ立った視線がうっとうしかった。


予定していた3日目もとうとう少年を見つけることができなかった。3日かけても少年を見つけることができなかったことで、ひどく男は落胆してしまった。

男は迷った。あきらめて帰ろうか、とも思った。

―― が、バッグの中から2年間かけて苦心の末かきあげた花火の絵を取り出して見るたびに、どうしてもそれを少年に手渡さねばという思いが湧き、帰るに帰れなかった。

男にとってその絵は、心のささえだった。その絵が、2年間自分を生かしてくれた、と男は信じていた。予定を変更し、男はあと数日旅館に滞在することにした。少年に会うまでは何日でもここにいるといった覚悟さえもあった。


4日目もやはり少年を見つけることができなかった。だが、5日目になって、もみ合うように校門から出てくる生徒の一団のあとから1人ぽつんと歩いている、まぎれもないあの時の少年を目撃した。

ハヤシマサオと名乗ったその少年は2年前と比べ、いくぶん背丈が伸びて大きくなったように見えたが、それ以外はところどころソバカスののった白い頬も四角ばったぼうず頭も昔のままだった。

すれ違いざまに少年は一瞬男の顔に視線を止めたが、立ち止まることもなくランドセルを背負いなおして行ってしまった。

男が声をかけそびれている間に、しだいに少年は遠のいていった。手をのばすようなしぐさで、男は少年を追いかけ、呼び止めようとした。

無理もない……2年前とは似ても似つかぬ格好だ……気づくはずがない……。少年の後を追いながら、男は頭に手をやり、髪をぼさぼさにかき乱した。

みる間に少年と男の距離がひらいていった。

 

―― が、少年の足が男と10メートルほど離れたあたりで急にぴたりと止まった。少年は不思議そうなまなざしで後ろを振り返ると、男をまじまじと見つめた。

……男から何かを少年は感じとったようだった。

少年は大きく目を見開いて、口をぽかんと開け、満面に笑みをたたえた。

男は急いで、バッグの中から、画用紙にかいた花火の絵を取り出し、それを両手で広げた。涙でゆがんだ男の視界に……男のもとにひた走ってくる少年の姿が映った。

風に吹かれて散った桜の花びらが、駆け寄ってくる正夫の肩やランドセルにはらはらとかかった。まるで2人の再会を祝福しているかのように。

正夫のにじんだ瞳に、いつも夢で見た赤や緑のざわめきが迫ってくる。まっくろな空にはじけ飛ぶ光の粒。

太陽が斜めからあたって、花火の絵が一瞬まばゆい光を放った。





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