Another Sea Story
―― 翌日の日曜日。梅雨前線の活動が弱まった空は気持ちがいいほどからりと晴れあがって、すがすがしい清涼感がどこまでも行き渡っていた。太陽が空の一番高いところにさしかかり始めた頃、正夫は海岸へ向った。
男は橋の下の日陰に体を横たえ、眠っていた。
正夫に気づくと、男はまぶしげに目を開け、ゆっくり上体を起こした。
「おじちゃん、今日はいい天気だから海で泳がないか」
そう言って、正夫は男を海に誘った。海がちょうど風呂代わりになって、男の体についた匂いや垢が取れるかもしれないと思ったのだ。
「おじちゃん、タオル持ってきたんだ、ほら」
初江に内緒で家から持ってきた大きめのタオルを、正夫は両手で広げてみせた。上半身裸になった半ズボン姿の正夫を見ながら、汚れた体を海で洗うのもいいかなと、男は思った。
正夫と同じようにズボンだけ残して裸になると、男は痩せた白い体を久しぶりに陽にあて、正夫に付き従った。
長い汚れた髪を振り乱した、あばら骨の浮き出た、貧相な男と小柄なぼうず頭の小学生が上半身裸で浜辺を連れ立って歩いている姿は奇妙な光景だった。海岸にいた誰もが2人を見入った。6月下旬の日曜日。海岸に若者たちが大勢繰り出し、雲間から少しばかり顔を出した太陽に肌をさらし、波の上にボードを浮かべては騒ぎ、戯れていた。
海がひんやりとして気持ちがいい。正夫はタオルを首に巻きつけ、男の腕を引いて沖へと行った。
「とうちゃんと、このへんでよく泳いだんだ」
正夫は晴れ晴れとした顔で青い空を見上げながら言った。
空からこぼれてくる陽の光がまださほど強いものではなく、体のすみずみがピンと張りつめていたが、たまらない爽快感があった。
「おじちゃんは海で泳ぐのは久しぶりだ」
男はひざを折って胸までつかり、正夫と目を合わせて言った。
「気持ちいいだろ、おじちゃん」
「ああ、気持ちいい」
「おじちゃん、背中流してあげようか」
男はまるで風呂にでもつかっているかのような正夫の言い方がおかしかった。
「背中、そうだねえ、じゃあ、背中を流してもらおうかなあ」
男は正夫の言葉に従った。
男が背中を向けると、正夫はタオルの中に隠し持っていた石鹸を素早く取り出した。そして、男に気づかれぬようそれを海水でぬらし、そっと男の背中をなでた。
男はぬるっとした感触を急に背中に感じ、驚いて体をくねらせた。
「びっくりしたか、おじちゃん」
「ああ、びっくりした」
正夫の手の中の石鹸を見て、男は口もとをゆるませた。
「きれいにしてあげるから、おじちゃん、あっち向いててよ」
正夫はそう言って、男の頭に石鹸をのせ、やりかけていたことにふたたび精を出そうとした。
海水で石鹸はうまく泡立たなかったが、正夫の心づかいが嬉しくて思わず男は目をうるませた。それを正夫に見られまいとして、男は体を丸め、背中を正夫に向けた。
落ちぶれた自分のような人間のために一生懸命背中を流してくれている……正夫のやさしい心根に男は胸が熱くなり、涙がこぼれた。
男はあとからあとから頬につたわる涙を正夫に気づかれまいとして、両手で海水をすくい、それで顔を洗うようなしぐさをした。ゴミのように人々からうとんじられ、人間嫌いにおちいっていた男の胸のうちに沈んでいたもろもろの憂いを、正夫の無垢な思いやりがぬぐい取った。
男は顔を上げ、泣きはらした眼で晴れわたった艶やかな空を見た。こんなにすがすがしい気分を味わったのは何年ぶりだろうか……。
白いふくよかな雲の切れ目から、太陽が目もくらむような太い光を投げかけていた。本格的な夏の到来がまもないことを告げるような濃い光の色だった。