Another Sea Story
――翌日。学校が退けて家に帰る途中、正夫は昨日中学生たちに打ちのめされていたみすぼらしい男を探した。
公園に立ち寄って男を探してみたが、男は見あたらなかった。中学生たちを恐れてどこかへ行っちゃったんだろうか?……。正夫は海沿いの国道を潮風に吹かれながら男を探して歩いた。
ランドセルの中には男のためにと給食で残したパンやチーズのかけらが入っていた。
「正夫君、どうしてそんなに残しちゃうの?おなかのぐあいでも悪いの?」と担任の順子先生にきかれた時、正夫はどう答えていいかとまどったものだ。とりあえず「うちで食べるんだ」と言って、心配げにたずねる順子先生を安心させ、その場はうまく切り抜けたけれど。
男はコンクリートの橋の下で、ジャンパーを頭からかぶり、膝こぞうをかかえて眠ったように座っていた。
男を見つけると、正夫は小走りで男のもとへ駆け寄った。
「おじちゃん」と正夫が無邪気に声をかけると、男は汚れて黒ずんだ顔を重たげにあげた。
正夫が目を細めて微笑むと、男も口もとを少しほころばせた。正夫は男のそばに寄ると、ランドセルを開け、「おじちゃん、これ」と言って、学校から持ち帰った給食のパンの残りを男に差し出した。
男はそれを見ると、うれしそうに目もとをたるませ、骨ばった手をのばし、正夫の手からパンをつかみ取り、急いで口に放り入れ、呑み込むようにして喉の奥へ押込んだ。喉につかえたのか時々男は苦しそうに咳き込んだ。
「おじちゃん、うまいか?」
夢中でパンを食べている男に正夫はきいてみた。
男は目やにのついた目尻をさげ、屈託のない笑みを顔面に浮かべて、それに応えた。くすんだ男の顔にほんのりと赤みがさしたようだった。正夫はあらためて男の身なりをじっくりと見た。
男の体からはまるで生ゴミが発するような、周りの空気まで汚染してしまいそうなひどい悪臭がただよっている。まぶたにかかるまでのびた男の頭髪は白髪が目立つ。その髪のせいか男はずいぶんふけてみえる。
何日も体を洗ったことがないのか、男の皮膚は黒くすすけている。痩せて頬はこけ、目はどんよりと黄色く濁っている。左目の下にほくろがある。ぽってりとした厚みのある唇はカサカサに乾いてささくれだっている。昨日中学生たちにつけられた額の傷は2センチほどの赤茶けたかさぶたとなって残っている。
「……ぼうや、小学生か?」
男が低いしぼり出すような声できいた。すぐに、「うん」と正夫はうなずいて答えた。
正夫は男にどんな話をすればいいのか困った。「おじちゃん、痛くなかったか?……」 正夫は傷のことを男にきいてみた。男はぎこちなくこっくりとうなずいて正夫を安心させた。
「……また、明日も持ってきてあげる」
正夫はそういうと、立ち上がって男から離れ、しばらく男を見て、それから急に駆け出して行ってしまった。
――翌日も正夫は学校が退けると、海岸を歩いて男を探した。男を見つけるのにさほど苦労はしなかった。男は昨日と同じ場所にまるで砂浜に打ち上げられたゴミのように顔を伏せ、うずくまっていた。
正夫が近づいて、「おじちゃん」と声をかけると、男はまぶしそうに目をまばたき、顔をあげた。
正夫は男のそばに座ると、ランドセルから給食のパンの残りを取り出し、男に手渡した。パンは昨日よりいくぶん多目だった。
男は正夫からパンを受け取ると、昨日とおなじように夢中になって食いついた。
「おじちゃん、これ」
目の色を変えてパンを食べている男に、正夫はランドセルからりんごの缶ジュースを引っぱり出し、与えた。
昨日、男がパンを食べながら喉をつまらせているのを見て、何か飲み物でもあったほうがと思い、貯金箱から100円玉を見つけ、自動販売機で買っておいたのだ。
最後のひとかけらを頬ばり、ジュースをひと飲みすると、男はほっと一息ついた。そして、「ぼうや、いつもありがとうな」と正夫に礼を言い、「ぼうやは何年生だ?」、「なんて名だ?」ときいた。
正夫は快活に、「4年生! はやしまさお!」と答えた。
4年生にしては小柄な目の前の少年に何を話そうかと、男はしばらくためらった。「学校はたのしいか?」、「勉強は好きか?」とありふれた質問をしてみた。
正夫はその2つの質問に顔を曇らせ、言葉をにごした。
その質問が少年の気を悪くしたのだろうか、と男は思った。
「おじちゃんが、勉強を見てやろうか」男はそう言って、正夫の機嫌をとりなした。
男の提案は正夫から笑顔を取り戻すのに充分なものだった。正夫は大きくうなずいて、ランドセルの中から算数の教科書を抜き取った。正夫は算数が苦手だった。「ここが今日の宿題なんだ」正夫は教科書を開いて男に見せた。
正夫の指差した算数の宿題を見て、男はしばらく頭をかかえこんでしまった。
案外難しいものだ……小学生程度の知能も失ってしまったのだろうか……湿ったマッチをこすって火を灯すように、あるいは曇ったガラスを磨くように、男は遠い昔に覚えた数学の計算を懸命に思い起こした。
いつしか男は以前にもこんな苦しみを味わったことを思い出した。かれこれ10年も前になるだろうか。
その頃男には妻がいて、10歳になる娘がいた。男はことのほか娘を可愛がっていた。だが、11歳の誕生日を迎える1週間前、娘は高熱に見舞われ、数週間それは続き、医者にリウマチ熱と診断され、心臓弁膜症を併発して亡くなってしまった。
一粒種の娘を失い、男の生活は荒れた。妻とのいさかいの日々が続き、たびたび救い難い鬱の状態が男を襲った。
娘が他界しておよそ1年半後に、男は妻と離婚という結末を迎える。
一方的に妻に離縁されたといったほうが適切だろうか。なにしろまともに勤めにも出られないほど男の病状は悪化の一途をたどっていた。8年間務めていた印刷所も無断欠勤がたびかさなり、男は解雇された。
それから7年ほどの間……。
深夜の地下鉄工事、山中での突貫工事と男はさまざまな職を転々とした。もっぱら肉体労働でその日その日を食いつないで生きてきた。
だが、2年ほど前から……。酒で肝臓をむしばまれ、しだいに仕事に身がはいらなくなり、男はいつとなく街をあてもなくうろつくホームレスになりさがってしまった。
娘にせがまれて宿題をみていた頃のことを思い出しながら、男は正夫の問いかけに首をひねった。そのうち徐々にではあるが、男の埋もれていた知力は芽をふき、あやふやながらも正夫の質問に答えられるようになった。
が、そんな男の努力にもかかわらず、どうしたことであろう。正夫の反応がいまひとつなのだ。
教え方が間違っているのだろうか……と、男は何度も首をかしげた。ちょうど投げたボールが壁に当たって跳ね返され、自分の所へ戻ってくるようなむなしい手応えばかり男は正夫から感じた。
そのうち男は正夫の理解力に問題があることをはっきり認識した。どうやら知恵遅れらしい……男は正夫がいとおしくなった。