Another Sea Story
―― その日の昼過ぎ。
正夫は教室の窓の外を何度も見やった。重々しいねずみ色の雲がたれこめていた空から雨がポツポツと落ち、しだいにそれは勢いを増し、斜めに窓を叩き始めていた。
天気予報が今朝方、梅雨末期の大雨を警告していたのを思い出し、正夫は男のことが心配になった。昨日海からあがった時、急に体を冷やしたためか男が何度もくしゃみをして震えていたから。
授業が終わって正夫が学校から帰る頃になると、いっそう雨足は強まり、突然大きな水たまりがグラウンドに出現し、豪快な雨音に混じって方々で生徒たちのかん高い喚声がとどろいた。
母親が黒ぬりの乗用車で迎えにきて、得意げにそれに乗り込む生徒。1本の黄色い傘に3人で入って、恨みがましい声を放ち、飛び跳ねるように帰る女の子たち。用心のためにと靴箱に入れていたカッパをこの時ばかりとはおり、雨にたたられて身を細めている同級生たちを尻目に見ながら、悠然と歩いている少年もいる。
正夫はそんな生徒たちの中に混じって、今日は雨が降りそうだからといって初江が持たせた折りたたみの傘を広げ、おぼつかない足どりでぬかるみをさけながら歩いた。正夫の足は男のいる海岸へと向かっていた。
……川の水が増えておじちゃん困っていないだろうか……風邪をひいてくしゃみをしてないだろうか……。 とりとめもなく正夫の不安はふくれあがっていった。
橋のたもとに着くとすぐ、正夫は橋の下をのぞき見た。
上流からの土砂が川に流れこみ、川は黄土色にうねり、吠えていた。水位もかなり高くなっている。
橋の下に、男はいなかった。どこかへ行っちゃったんだろうか?……正夫は男の行きそうな場所を思い巡らした。
ふと、男が以前いた公園が頭に浮かんだ。跳ね上がる泥水も気にせず、正夫はそこから100メートルと離れていない公園に駆けて行った。
公園では、大粒の雨に叩かれたぬれそぼった樹々が、冷ややかな張りつめた大気の中であざやかな緑を飛び散らせていた。
正夫は公園の隅のトイレに飛び込んで、男の所在を確かめた。
男の姿はなかった。一番いそうな場所に男がいなかったことで、正夫はひどく気を落としてしまった。
どっかで雨宿りしてるんだろうか……。正夫はトイレのひさしの下にたちすくみ、いつまでもやみそうにない雨をうらめしげににらみ、途方に暮れた。
しばらくそこで雨の勢いがおさまるのを待っていると、もしかしたらもう男に会えないのではという思いがふっと湧いた。その予感は確信めいた思いとなって正夫の胸に迫った。
激しい雨音に心はちりじりにかき乱され、ふりきれないせつなさが正夫の中で濃い闇をつくった。
正夫はそれをふり払うようにして、風をともなってきた大雨の中を駆け出した。風に吹き飛ばされそうになっている傘をしっかりと胸もとにつけ、公園を出た後、駅前付近まで足をのばし、男を探した。
駅前では、帰宅を急ぐ人々の足が雨の中でよどんでいた。
誰もがかたい表情で棒立ちになってバスやタクシーを待ちわびている。駅の構内のすみずみにまで目を凝らしたが、どこにも男は見あたらなかった。商店街や町中の路地にも目を配った。しかし期待はことごとく雨に打ち砕かれてしまった。
正夫はくたくたに疲れきってしまった。下着にまでしみ通った雨に体の芯がふるえていた。
その濡れそぼった体を元気づけ、正夫はふたたび、海岸へと向かった。海沿いの民家の軒下にもしかして男がいるかもしれないと思ったのだ。
だが、その予想もまたはずれてしまった。海岸沿いの民家を一軒一軒たんねんにのぞいて回っても男を見つけることはできなかった。
びしょぬれになった体で橋のたもとに立ち、正夫は収拾のつかない混乱に漬かった。目の前で、男といつも見たおだやかな海が雨にけむって白く濁り、逆巻いていた。
―― それから一週間ほど、正夫は学校が退けると、男を探して歩いた。ひとつ先の駅前まで足を伸ばし、男の面影を追ったこともあった。しかし、そうした正夫の努力も結局実を結ばなかった。
何故急にいなくなったんだろう?
……正夫は合点がいかなかった。初江が何か男のことを知っているような気がして、何度かそのことをたずねてみた。だが、その話になると、初江はさっと表情を変え、口をつぐんでいるばかりだった。その妙にかたくなな初江の態度が正夫には不可解だった。
それから数日後、正夫は万引きをした文房具屋に出向いた。
右手に、初江からもらって貯めていたわずかばかりのこづかいをしっかりと握りしめていた。いつか男に手渡した色鉛筆と同じものがどうしても欲しくなったのだ。
正夫は、店の主人にバツの悪そうな顔で少し頭を下げると、100円玉8枚を主人に手渡し、「これで買えるだけ」と言って、色鉛筆のセットを指さした。
(バラじやあ売ってない……)思わず、そんな言葉が店の主人の口からもれそうになった。が、正夫の澄んだ目を見ていると、(いつかきっと、残りも買うに違いない……)そんな気もした。
「好きな色をもっていきなさい」笑みを含んだ目で、そう言うと、主人は正夫に色鉛筆のセットを差し出した。
正夫は、そこから赤や緑や檀色、そして濃いめの青色を選ぶと、「また貯まったら、来るから」と、嬉しそうに言い、色鉛筆を握りしめて、外に飛び出して行った。
あんな頃もあった……軽やかに走り去っていく正夫の後ろ姿を、店の主人はどこかなつかしく感じた。ふと笑みをこぼし、部屋に戻ると、封筒に<取り置き>と書いて、残りの色鉛筆を大切にしまい入れ、そっと引き出しの奥にしのばせた。
正夫はその足で海岸に行くと、ランドセルからノートを引っ張り出し、真新しい色鉛筆で、夕闇に沈む海岸やいつも夢で見た花火を描いた。 色合いに欠ける分、多少不満が残ったが、いつか残りの色鉛筆を買いそろえて絵を完成させたいと思った。
それから3週間ほどして……、
正夫は、こづかいが貯まると、文房具屋に行き、色鉛筆を買い求めた。そして、海岸に出向いては、夜空にはじける光の競演をノートいっぱいに描いた。色鉛筆を買い足していくうちに、花火も少しずつ華やかさを増していった。
夕暮れの中、暗闇に飛び散る光の輪を想像しながら、光の粒に色づけしていると、どこかで、男も同じように花火を描いているような気がして心が安らいだ。
そして、さらに半年が過ぎると……、
正夫の中の男の記憶はしだいに色あせ、あいまいなものになっていった。
時々男と過ごした日々を思い出し、海岸を歩いていると、ひょっとして男は死んでしまってもうこの世にはいないのでは、という不吉な予感が頭をよぎり、胸がしめつけられることが幾度となくあった。