そして、いつかの海に
Another Sea Story

その年の6月のある日のこと。

薄汚れた紺色のジャンパーに、よれよれの黒っぽいズボンをはき、片手にくたびれたデパートに紙袋をさげた不潔な身なりの男が駅のホームに降り立った。

改札口を男が通ると、駅員は男の身体から発する臭いに思わず顔をそむけた。駅員ばかりではない。にぎやかな駅の構内で男とすれ違った誰もが男の外見を見ては警戒の色を深めた。

そんな周りの人間たちの動向を、男はいちいち気にもとめていない。いつも見慣れた風景の一部でも見るかのように歩調の乱れもなく、さっさと駅の構内を出た。

構内から一歩外に出ると、でんと構えた正午過ぎの太陽が男に強い光をあびせた。爪を立てて髪をむしりながら、太陽から身をかわすようにして、男は駅から徒歩で10分ほどのところにある海岸へと向かって歩き始めた。

見た目には、男の歩調はその風貌とは反対に軽やかに見える。

……が、実のところ2日前から水だけの生活の男にとっては、立っていることさえ苦痛だった。

駅前の大通りを歩いていると、洋菓子を売る小さなかわいらしい店がふと男の目にとまった。男の足がその店の前で止まったのも無理はない。ガラスケースの中の白いクリームののったショートケーキに、男はしばらく見とれた。

ガラスに、髪をふりみだし、物欲しそうな目をした、貧相な男が映っている。これが自分かと、男は思わず目をしばたいた。ガラスの上の男の顔はどうみても50代の後半だ。それを見ている人間はまだ40代の前半なのに。

店の前にいつまでも男が立っていると、レジのそばにいた若い女店員がうさんくさそうにジロリと男を見て、ささやきかけるような声で近くいた若い男の店員を呼んだ。

面倒は起こしたくはないと男は思った。若者が店の奥から顔を出すと、男は足早にそこを立ち去った。

見なければよかった……。おかげで腹の虫が急に目覚め、食べ物を求めて泣きはじめている。

何度も唾を呑み込み、男はひもじさをまぎらわそうとした。だが、大通りのレストランの前を通るたびに敏感に鼻が反応して、空腹感はよりいっそう増すばかりであった。

どこかでたらふく水でも飲めばいい。男はそう自分に言い聞かすと、肩を落し、ふたたび海岸に向かって歩きはじめた。男はにぎやかな町中を見やりながら、今日の寝ぐらと食べ物の調達のことを考えた。



商店街に人だかりが見える。

男が近づくと、それはさっと二手に割れた。しかしそれも男の感情を波立たたせるのに充分なものにはなりえなかった。2年間の浮浪者生活で、もはや自尊心など久しく使わないで退化しつつある筋肉と同様なものになっている。

上を仰ぎ見ると、ほうきではいたような薄い雲がブルーの輝く空に漂っていた。その明るい光はすでに夏の色だ。すっかり晴れあがって、空気が乾いている。歩いているうちに、男は大気の中に湿っぽい潮の香りを感じはじめた。

ほどなくしてまぎれもない青々とした悠然たる海が男の黄色くよどんだ両眼に映った。道路をへだてた海岸の手前に公園らしきものが見える。喉の渇きが頂点に達していた男は駆け込むように公園の中に分けいった。

   

深い緑に囲まれたその小さな公園に人けはなく、ひっそりと静まりかえった樹々の間を小鳥のさえずりが飛びかっていた。

男は水飲み場を見つけると、もつれそうな足どりでそばに寄り、水道の蛇口に口をつけた。

近くの砂場で遊んでいた小さな女の子が着せ替えのゴム人形を両手で大事そうにかかえきょとんとした目で男のいそがしく水を喉の奥に送り込んでいる様子を見入っている。

満足のいくまで、男は水を胃袋に流し込んだ。男が心ゆくまで水を飲み込んだ頃、若い女性が、少女のそばへ駆け寄ってきた。

下からすくいあげるような視線で伏し目がちに男を見ると、その女性はまじろぎもしないで立ったままの少女を抱きかかえるようにして連れ去っていってしまった。

母親だろうか…男は濁った目で、遠のいていく女性の後ろ姿をしばらく見つめた。そしてため息を一つもらすと、ちじんだ腰を伸ばし、のっそり立って、紙袋を手にした。

男は横になれそうな椅子を探して歩いた。

若い恋人同士がベンチに座ってなにやら楽しげに話しをしている。男がそこを通りかかると、恋人たちは目で合図しながら、そわそわとベンチから立ち、どこかへ行ってしまった。

おりよくベンチが空いたことに男は気をよくした。どっかりとそこに腰をすえると、くたびれた雑巾のように体を横たえた。

公園の中は樹々の作り出すおびただしい酸素で満ち、さらにほどよい湿気が大気に混じり、清爽としていた。寝ぐらにちょうどいいと、男は思った。たれこめた緑の葉末の間から照り輝いた6月の青い空が見える。

しばらくすると、またぞろ空腹感が男を襲った。さきほど歩いてきた駅前の大通りの食品街を思い浮かべ、夜更けに起きて何か口にできそうなものを探そうか…と、男は思い巡らした。

男はその海辺に近い公園で寝起きすることに決めた。こじんまりとして、あまり人けのないその公園はたいへん居心地がよかった。

 

朝方、まだ通りに人影が見られない頃、駅前の大通りを歩くと、パン屋の前に昨日の売れ残りが他のゴミに混じって山ほど捨てられているのを見つけ、食糧には事欠かないと知り、ますます男はその公園を気に入ってしまった。

TOP > 4. その公園に男がいつくようになって・・・

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