そして、いつかの海に
Another Sea Story

―― それから1週間ほど経ったある日。

「おじちゃん…… 絵…… うまいか?」 正夫は男の顔をのぞき見ながらきいた。

「ああ、おじちゃんはこれでも絵だけはうまいんだ。ぼうやみたいにちっちゃい頃な、将来絵かきになりたいと思っていたんだ」 男はそう言うと、正夫から鉛筆とノートを借り、5分ほどかけて目の前の海岸の風景を描写した。

黒一色しか使ってないせいか、男の絵にはどこかもの悲しそうな風情がただよっていた。人物のいっさい描かれていない、砂と波と沈みゆく太陽のドラマチックな絵だった。

男の絵に正夫の心は浮き立った。もっとかいてくれと正夫はせがんだ。

男は正夫ぐらいの年の頃、勉強もしないで無心になってノートに絵ばかりかいていた日々のことを思い出した。あの頃は楽しかった……男の胸のうちで少年時代のときめきが息をふきかえした。

「ぼうや、大きくなったらなんになりたい?」

「ぼく…… ぼくは大きくなったら、強くなるんだ」

正夫は胸を張って答えた。真剣な顔で、的はずれな答えを返す正夫を見て、男は苦笑した。

「プロレスラーみたいにか?」

「うん、とにかく強くなるんだ」

正夫は繰り返しそのことを強調した。

男は正夫の要求に応じて、さらに海岸の風景を2枚かいた。やはりそのどれにも人は描かれてなかった。男が1枚かき上げるごとに正夫は手を叩いて喜んだ。もっといっぱい描いてくれと言って、正夫はそのままノートと鉛筆を男に渡した。


―― 翌日。男は正夫からもらったノートと鉛筆を手にして、日がな1日海岸をスケッチして歩いた。小さなとげ立った光の飛び跳ねる銀色の海を描きながら、正夫の喜ぶ顔がまた見たいと思った。

学校の帰りに正夫が男のもとに立ち寄った時、男は正夫に白く波だった海の絵を見せた。男の期待通り、正夫は興奮した。

「夏になったら、ここで花火大会があるんだ」

正夫はそう言って腕を伸ばし、人さし指を空へ向けた。そして男の描いた絵に視線を移し、 「このへんで、パッ、パッ、パッて奇麗な光が出るんだ」 と言って、指で絵の上をなぞった。

男は正夫の言うようなきらびやかな花火を想像し、真っ白な空にそれをかき加えてみた。しかし黒い鉛筆で花火の華やかさを出すことはとても無理だった。

「おじちゃんにも見せてあげたいな」

正夫は男の絵に満足がゆかなかった。


―― そして次の日。学校の帰りしなに正夫が小さな文房具屋の前を通りかかった時のこと。

そこはふだん立ち寄ることのない店だったが、なぜかその日正夫はその店の前でふと立ち止まった。店の奥のガラスのショーケースの上に置いてある豪華な色鉛筆のセットに目が奪われたのだ。

店内には店主も客もいなかった。

正夫は引き寄せられるように店に入っていった。ガラケースの上の色鉛筆のセットは70種類もの豊富な色合いが揃っていた。

見ているだけで、心がとけてしまいそうな甘美な色の世界がそこに広がっていた。定価は4千円と表示してある。

( おじちゃんにこれを見せたら、喜ぶだろうな…… )

正夫はそれを手に持ち、うっとりと見入った。

( これがあったらきれいな花火の絵がかけるだろうな…… でもこんなに高いもの、かあちゃんはたぶん買ってくれないだろうし…… )

それが自分には絶対に手が届かないものだということは正夫にもわかっていた。しかし、それを手にした男の喜ぶ顔を、それで描いたきれいな花火の絵を見たいという思いをどうにもおさえることができなかった。

店内には誰もいない……。

正夫の色鉛筆のケースを持った手がじっとりと汗ばんでいた。頭の中でパチパチとたき火をたいているような音がひろがり、頭がくらくらした。喉はひからびた田んぼのように渇いている。

店内に誰かいればそんなことにもならなかったであろう。ちょっとしたすきに正夫は脇にケースをはさんでしまった。それからすぐに店の外に飛び出し、わき目もふらず正夫は走った。周りを見回す余裕などなかった。

文房具屋から5,6メートルほど離れたあたりでちょうど玄関から出てきたばかりの50歳前後の小太りの主婦と出くわし、正夫はすれちがいざまに足をとられ、あやうく転びそうになった。

ごめんなさいと主婦は謝ったが、正夫は返事もしないでうつむいたまま体勢を整え、そのまま急いでその場を立ち去った。

学校が退けた後、毎日のように男に会いに行ったが、その日は正夫の足は海岸には向かわなかった。色鉛筆を盗んだことで気が動転し、それどころではなかったのだ。


―― そして、翌日。正夫は文房具屋から万引きした色鉛筆のセットを男に渡した。男は充血した目を大きく開け、こんなにいっぱい色があると、きれいな花火がかけるといって喜んだ。

いけないことをしてしまったという罪の意識にかられ、中々寝つけない、つらい夜を過ごした正夫にとって男の無邪気な笑顔はせめてもの救いだった。

男は手にした色鉛筆で、さっそく夕暮れ時の黄金色にゆれる海と正夫の似顔絵をかいた。さまざまな色をたくみに組み合わせ、男は赤と黒のまだらに溶けた空や、灰色に陰った泡立つ波をていねいに描いた。

正夫はまるでカメラで写したかのような男の絵を見て興奮した。

「おじちゃん、やっぱり色をつけるとすごいや」

「ああ、うまいもんだろ、おじちゃんも」

男は上機嫌で言った。

「そのうちもっとうまくなってきれいな花火の絵をかいてやるからな」

「うん、でっかい花火!でっかい花火!」

正夫はそう言って目を輝かせ、男にせがんだ。


―― それから1週間ほど経ったある日。

スーパーの仕事を終えて帰ってきた母親の初江と遅い夕食を、正夫がとっていた時のこと。

「正夫、お前、なにかかあさんに隠していることがあるんじゃないの?」きびしい目で初江は正夫を問い詰めた。

初江のけわしい表情を上目づかいに見ながら、正夫は色鉛筆を盗んだことがばれたのだろうかとびくついた。

「学校の近くの文房具屋さんで色鉛筆が盗まれて……。お前があわててその店から出てくるのを見たって…」

正夫は何も答えず、うつむいたまま茶碗のご飯をはしでかき回していた。

「ほんとなの?……正夫」

何も答えようとしない正夫に、初江はいらだったようにきいた。

「……ちがうよ。ぼくじゃないよ」

「うちのスーパーのお得意さんが文房具屋さんの近くにいてね。確かにお前に間違いないって……。嘘つかないで、もしそうならそうとほんとうのことをおっしゃい」

正夫は緊張した顔で黙りこくっていた。

「黙ってないで、ほんとのこと、言いなさい。かあさんに」

初江の剣幕に正夫はもはや嘘を隠し通せなくなった。

「……おじちゃんに、あげたんだ」

「おじちゃん?どこのおじちゃん?」

「海岸にいるおじちゃんに」

「海岸?海岸て……海岸に住んでいるの?」

正夫は2週間ほど前に公園で知り合った男のことを打ち明けた。初江はそのことを正夫から聞くと眉をひそめた。

「おじちゃん、きたないかっこうしてるけど、絵がとってもうまいんだ」

「だからって万引きしていいわけないでしょ」

「お、おじちゃんのせいじゃないんだ……」

正夫は必死になって男をかばった。

正夫のいつになく真剣な目を見ながら、正夫の関心を強く引いている男に一度会ってみたいと、初江は思った。明後日あたり休みをもらって海岸に行ってみようかしら……。

初江はテーブルにはしを置き、日増しに亡くなった正吉に似てくる正夫をぼんやりと見た。はたして正夫が男になついたままでいていいものかと、初江は心配になった。

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